ミャンマーの混乱は続いている。悲しくてやりきれない。
2014年ミャンマーを旅した。慰霊の旅だった。
我が殿の祖父はビルマで亡くなった。舅が8歳のころ出征しそのまま帰らぬ人に…。終戦後10年近く経って男性が訪ねてきたそうだ。「怪我をし動けなくなった祖父をそのままに…その地を離れました」と。もうどうにもならないと分かった祖父は、その方に自分を置いていくように言ったという。
祖父の戦地での情報はほとんど残っておらず、軍の記録には死亡した場所「カド」とあるのみだった。
ミャンマー行きを決めてから、できるだけ祖父の足跡をたどりたいと調べ始めた。意外にも助けられたのは福岡県庁だ。遺族年金を管理することから、県庁の福祉課にある程度の戦時資料が残っている。たまたまその頃福岡出張があり、一日お休みを頂いて平日の県庁で祖父に関連しそうなものを探した。その日は祖父の所属していた部隊の資料を持ち帰った。しかしその数日後、担当してくれた県職員さんから連絡があった。役立ちそうな資料を見つけたのでFAXで送りたいと。祖父が亡くなった昭和19年時の“ビルマ戦域作戦経過要図”だった。
祖父の死亡地「カド」。部隊の作戦や移動変遷はある程度把握できたのだが、このカドという場所の特定が中々できなかった。そんな中送ってくれたビルマ戦域作戦経過要図。その地図上に「カド」が見つけられた訳ではない。しかし他資料などと照らし合わせることで、ある程度の場所を特定することが出来たのだ。(ちなみにkadoで検索するとウィキ情報が出てくるが、sourceが分からないものは信じない質なので今回は自ら調べた)祖父の足跡探しは他にも防衛省・防衛研究所にある図書館が役立った。
出来ればその場所で手を合わせたい。
早速どうやってミャンマーでそこまで向かうかを調べた。ここで直面したのが、現在の混乱をもたらしている軍政が故の弊害だ。ミャンマーには外国人が足を踏み入れてはいけないというエリアが設けられており、祖父の戦死地はまさにその中にあった。
そこへ行けないのならば、近くまで行くだけだ。ミャンマーでのメインになる訪問地をマンダレーと決めた。
実際に訪れたミャンマー・マンダレーは素晴らしいところだった。走るバスには何人もの人が掴まって立ち乗りをし、加速した車両が多く行きかう道路には歩道なんてない。痩せこけ、毛の抜けた犬がふらついている。日本でいうところの‟昔の土間”でしかないトイレが端っこにあるだけの市場には人が溢れている。みな穏やかで良い笑顔をしている。よくお隣のタイが微笑みの国と言われる。こちらまで幸せになるような温かさを感じる笑顔が、確かにタイにもある。しかしミャンマーの人々の素朴な笑顔はタイのそれとは異なり、静かに心に映りその残像が穏やかに人を暖めていくようなものだった。
祖父の慰霊の旅は素晴らしいものになった。
そんなミャンマーが今、悲惨な状況に陥っている。私が訪れたとき、可愛い笑顔をみせてくれた子供たちも、穏やかなタクシーの運転手さんも、街を行きかう人々も、皆この混乱の中どうなっているのだろう。
早く事態が収束してほしい。切に願う。