NHK大河ドラマの「青天を衝け」。全く期待していなかった。渋沢栄一は、名こそ知っていたものの”ただの商売人”程度にしか思っていなかった。
私にとって明治の経済人と言えば高橋是清だ。というのも司馬遼太郎「坂の上の雲」の印象が強いのだが…。渋沢栄一に関する本は読んだことがなく、ただ何百もの会社を作ったというそのイメージだけで”ただの商売人”、一方是清は政治的局面からも日本の世紀転換期を支えた経済人という大物感を感じていたからだ。
しかし!今回の大河ドラマで印象は一変した。まさか幕末の激動の時代を志士として、また幕府の中心で生きてたなんて思いもよらなかった。幕臣として一橋家に入り幕末期を過ごした人物だったとは。幕府の懐を管理し、パリ万博でも幕府一行の財政を調整し諸外国に恥じぬ一国の代表団として振舞えるように脇から支えた、そんな人物だったとは…。
ということで、思いのほか大河ドラマを楽しんでいる。好きな幕末期の話であるし(これもまた司馬遼の「飛ぶが如く」の影響だが)、この後薩長の力が色濃くなっていく政権下で渋沢栄一がどう立ち振る舞っていくのかも楽しみである。
ところで、今回は山歩きのことを書こうと思って、書き始めている。
前段が長い。悪い癖である。
「青天を衝け」ではまだ平九郎も登場していない頃、妹とどこを登ろうかと、地図”奥武蔵登山詳細図”と睨めっこしながら軽登山コースを考えていた。すると、黒山三滝の近くに”渋沢平九郎自決之地”というポイントを見つけた。この時はまだ渋沢平九郎のことを知らず、しかし渋沢という名字から渋沢栄一の関係なのかと調べてみた。
すると想像以上のストーリーが!ここを回らない手はない。そこで↑のコースで軽い山登りを決めた。(平九郎のストーリーはすぐにネットで出てくる)
今や大河ドラマでも出演を終えた。可愛い子供時代から登場し、清々しい青年となり、栄一の養子になり幕臣として江戸に上ると彰義隊に入り時代の騒乱を生き、最期は官軍に追われ、戦い破れ自刃した。
顔振峠からの景色である。これは最近殿と登った時で気持ちのいい秋晴れだった。何年か前はここで雲海を見た。妹と登った5月は桜の名残とサツキと初夏の花たちとが入り混じる季節だった。いつ行っても素晴らしい峠である。
ここが平九郎にとっての最期の峠越えだったのか…。
飯能戦争で官軍に負け、飯能の山々を越えながら顔振峠へ。茶屋で少しだけ休ませてもらい、ここから降りたところで自刃したのだ。その茶屋は今も平九郎茶屋という名で残っている。この茶屋での平九郎エピソードもネットを探せばいろいろと出てくる。
顔振峠にはこれまで何度も来ていたのに平九郎については何も知らなかった。今はこの峠で同じ景色、同じ風を感じたのかもしれないと思いを馳すことができる…。
茶屋で手作りの饂飩を食べ、茶屋の真向いの登山口から下る。
平九郎も歩いた道。茶屋に秩父方面が安全だと勧められても、故郷である深谷方面へ向かった。望郷の念が強かったんだろう…。
そして自刃の地。小さな沢沿いの谷間を走り回り戦ったのか…。そして自ら命を絶つ…。
渋沢栄一がこの地にお参りにきたのは平九郎の死からかなり経ってからである。
自刃した時、平九郎と示すものはなく、しばらくは江戸のお侍だと思われていたそうだ。平九郎だと分かったのは、その死から数年経ってのこと。兄である尾高惇忠が越生でのこの話を聞きつけ、確認したという。
平九郎の首は越生の市中で晒し首にされた。それでもこの勇ましい死をとげた青年を地元の人は尊い、首も亡骸もそれぞれ地元の人らによりきちんと葬られていた。
(それもまたのちには谷中にある渋沢のお墓に合わせて改葬されている)
越生駅に併設された”道灌おもてなしプラザ”で平九郎展をしていることを道の駅で知ったので、行ってみた。
すると、小さな展示の中に同じ彰義隊として戦った「比留間良八」という人物についてのパネルがあった。日高市梅原の出だという…。近いなぁ…、確か比留間姓の多い地域があったなと思い出し、帰りに寄ってみることにした。寄ってみるといっても当てはない。
比留間美容室や、比留間の表札はいくつもあるけれど…。何か良八に繋がるものはないなぁ。…と話していると突然我が殿が「そういや、小さな境内に武術がどうだこうだと書かれた案内版があったかも」と言い出した。ちなみにこの辺りは殿の散歩コースである。
あった!比留間良八が鍛錬した甲源一刀流の稽古が行われていたという満蔵寺。良八の師は、その父・比留間半造。
ここで鍛えた良八は剣術の腕をかわれ、一橋慶喜の護衛につき鳥羽伏見の戦いにも出た。その後彰義隊に加わり、平九郎らとともに戦ったのだ。
そんな人物がこんなに近くから出ていたなんて…。
生家は残っていないのだろうか。しばらく周辺をウロウロしてみた(ただの不審者である)。そこで、すぐそこにいつも卵を飼う養鶏場があることに気付いた。何か知ってるかもしれない。売り場のおばちゃんに聞くと私じゃ分からないからと、その養鶏場のおじいちゃんを呼んでくれた。「比留間半造・良八の生家とか何か残っている場所はありませんか?」と聞くと、「生家はないし、もうその家のことを知ってる人も少ないけど、石碑があるよ。見てきたら」という。石碑の場所を教えてもらい向かった。
たしかにおじいさんに教えてもらった辺りにいるはずなのに見つからない…。探しているつもりで、人んちの敷地にまで入ってしまった(笑
二手に分かれて探すと、木々に埋もれてその石碑はあった。通り沿いにあるにも関わらず、カーブした道のさらに奥まったところで鬱蒼と木々に覆われていて、全く気付かなかった。何度もここを歩いている殿もこの石碑の存在には気づいていなかった。
石碑自体も管理されていないせいか風化が進んでおり、漢字一つ一つ追うのも難しい。
甲源一刀流がどうこうで、八王子で門下がどうこう、といくらかは読むことが出来た。しかし目を見張るのはその最後に寄せられている名である。
正四位 山岡鐵太郎
あの山岡鉄舟である!甲源一刀流をこの地から広めた比留間家を称し、この石碑に名を連ねているのだ。すごい。
と、渋沢平九郎を辿ったところから思わぬ発見があった。
今や飯能も渋沢平九郎に湧いているらしいw。博物館や能仁寺にも足を運んでみたい。
甲源一刀流は今も日高市で教えられているのか調べてみると、日高ではもう無くなっているようだ。
しかしなんと甲源一刀流道場が小鹿野にあるという。小鹿野というだけでドキドキする。なぜなら、明らかに秩父事件で獅子奮迅のごとく戦った志士たちの中に、この使い手がいたことが想像できるからだ!
日高市の比留間家は、18世紀に小鹿野で甲源一刀流の師・逸見太四郎義年の門下になった比留間与八利恭に始まるらしい。
ここにきてまた調べてみたいことが増えた。秩父事件の小鹿野の志士の中に、甲源一刀流の使い手がいたはずだ。どれくらいいて、それぞれどのように事件に関わっていったのか。分かることがあったらめちゃくちゃ面白いだろう。
探らなきゃいけない資料や本はあの辺だろうなぁ…w