乗馬から考えさせられたコミュニケーション

私は人との付き合いをある程度辞めた人間である。

しかし最近、乗馬をしていると考えてしまう「コミュニケーションとはどういうことなのか」と。

 

技術的にまだまだ未熟である。さらに乗馬では馬と折り合いをつけながら「よし一緒に駈足しよう」等とコミュニケートしなければならない、気持ちを合わせなければならない。しかしそのコミュニケーションの仕方が分からない。

乗馬歴の長くない私は言わば馬にとっての未就学児であろう。わたしが何かを求めても、馬にとっては小さい子供が何かジタバタと泣いて叫んでいるのと変わらない。察しのいい馬は、馬のほうがこちらを気遣い、なぜか私の希望を叶えてくれる。そうじゃなくても何かをしようとしてくれている。本当に馬は頭がいい。

ここで質が悪いのが私という人間である。本当の未就学児・子供ならば馬に遠慮することなく素直に要求を要求のままに表し、馬との折り合いを自然と学んでいく、コミュニケートしていくのだろう。しかし40歳近い私は、ある程度人生の中で人とのコミュニケートを図ってきたはずとの自我から、馬に対してそれが出来ないことにいちいち落ち込むのである。馬にとって子供の様なものならばその様に振舞えたらいい。そして子供が成長するが如く一から馬とのコミュニケーションを学ばせてもらったらいいはずなのにである。

そんな風に今振舞えていないのは、「私はコミュニケートが出来ない人間じゃない、馬のことだって分かろうとしている」という余計な自我がそこにあるからである。意固地なプライドとでも言えようか。

 

私が人との付き合いを辞めたのは、同じところを目指していたと思っていた仕事仲間の中で私が悪玉菌となっていたことに気づいたからだった。勝手にコミュニケーションが取れていたと思い込んでいたけれど、それが勘違いであったことに気づいたからである。35歳過ぎたころだった。それまでの人生を否定された気がした。そんなに私は人とコミュニケート出来ない人間であったかと…。

ただ心のどこかで自分はそこまでではないと信じたいのである。そんな自我が強くあり、それが馬に対しても働いてしまう。

 

乗馬が好きである。ただ、こんなクソみたいなプライドを乗馬に持ち込み、焦る自分が恥ずかしい。大体そんなレベルでもない。そんな人間に付き合わされる馬も可哀そうである。馬とのコミュニケーションを子供の様な純真な心でとれたらと考えさせられるのだ。

ただ一方、人とのコミュニケーションを諦めた自分にそれが可能なのかとも考えるのである。このままではいけないのではないかとも…。

余計なものを捨てて馬とコミュニケートしたい、素直に。そんなことを考えている。

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