4月13日、朝早くに乗馬クラブへ。通常予約の予約票を提出する日で、提出後、馬房を見て回り馴染みの子たちに「おはよう、今日も頑張ってね」と声をかけていた。すると、「あなた何て名前なの~?」と馬に話している声が背後から。振り返ると、いつもおられる優しい厩務員さんで「来たばっかりなのね」と話し続けていた。
「おはようございます」と厩務員さんに声をかけると、「もう新しい子が来たみたいですね」と話されて…、気づいた。
「あ。グラニの馬房だ、ここは。」と。
二日前の11日、他の子に乗るために馬装をしていたところ、近くの洗い場にいたグラニの様子がおかしく周りがかなりザワついていた場に居合わせた。めずらしく大きく前掻きをし、そこにいることがしんどそうだった。スタッフが呼ばれ、洗い場から連れて行かれたことは認識していた。
結局、ひどい疝痛が獣医さんが来た後も治まらず、捻転を起こしていることも確認されたらしい。その日の夕方に、ゆっくり休んでもらうという処置が選択がされたということだった。
本当にたくさん乗せてもらった子だった。初めてそういうお馬ちゃんが死んでしまったことを体験した。悲しかった。
同じ日、4月13日。私は母の死を覚悟した。
間質性肺炎でずっと療養していた母。今年に入り、呼吸難が強くなっていた。2月ころからは意識が朦朧としていることも多くなり、会話が難しくなっていた。
3月の末、ほとんど意識が無いというほどの症状を発してからは怒涛の様に日々が過ぎた。多少の回復はみせたものの、間違いなく弱っていく母がいた。あまりにもその病状の変化が激しく、看護士と主治医が何度も診にきてはを繰り返し過ぎて、記憶が整理できないw。
間質性肺炎の症状は呼吸難である。
苦しいのである。ずっと水責めをうけているようなものなのだ。
この症状を最後に緩和する方法は「強めの緩和剤を点滴で入れ、眠ってもらう」ということだ。眠るとは一応文字通り「寝る」ということで、意識を寝ることで無くしてしまい、この苦痛から解放するという事である。ただし、一度この点滴を始めると二度と目を覚ますことはない。全身の働きが緩やかに低下していき、死を迎えるのだ。
この日、母はこの処置をとってもらうという選択をした。
以前から延命処置をしないことは決めてあり、主治医もそれをよく理解してくれていた。最期の迎え方も母はよく分かっていた。言ってしまえば、「その時がきた」という事だけだった。
二日後、母は亡くなった。
早いと言えば早いが、この数か月の苦しみから解放されたことも間違いなく、そしてこの数年の闘病生活もよく頑張っていた。全く過保護に相手をするわけでもない私のもとでよく過ごしたものだと、なかば感心するほどである。私の介護については振り返ってみると反省ばかりになるので、今はまだ振り返らないw。許せよ、母w。
と、二つの死と直面した4月13日だった。
↑写真は70年代、本土復帰後の沖縄。真ん中が母。この写真がたまらなく好きだ。